skip to main content

ラクロスへの引っ越しが2つの家族をつなぎ合わせる

ウィスコンシン州に移り住んだW・W・カーギルとW・Wの家族はマクミラン家と出会いました。この出会いが将来のカーギルの事業の成功につながりました。

January 01, 2015

カーギル設立当初から、カーギルの創設者であるウィリアム・ウォレス(W・W)・カーギルは、家族を会社の基盤としていました。W・Wの弟サミュエル、シルベスター、ジェームスは、カーギルの事業の創設に貢献しました。最終的にシルベスターとジェームスは他の興味のある道を選びカーギルを離れましたが、サミュエルはW・Wの信頼できるパートナーとしてカーギルに残りました。

穀物取引事業に参入してから10年後、W・Wは家族と共にミシシッピ川沿いにある成長を遂げている街、ウィスコンシン州ラクロスに移り住みました。ラクロスは、2本の主要な鉄道路線の交差地点にありました。この引っ越しは、カーギルの同族経営の継続につながるものとなりましたが、それは「予期せぬ形」で実現しました。

W・Wと妻エレンは、ダンカン・D・マクミランが家長である大家族が住む家の向かいに新居を建てました。ダンカン・D・マクミランもまた起業家であり、La Crosse Gas Light Companyなど木材や金融業界で企業を経営していました。

幼馴染としてカーギルとマクミランの子供たちは一緒に遊びました。そうこうするうちに、マクラーレン家の長男ジョン・Sr.がW・Wの娘エドナ・カーギルにプロポーズしました。2人は1895年にウィスコンシンで結婚し、カーギル家とマクミラン家を永遠につなぎ合わせ、同族経営の企業に新たなリーダーシップを導入し続けました。また、ジョン・Sr.は、家族名の表記を変え、「MacMillan」という別名を発表しました。この名前はその後の世代に受け継がれることとなりました。

2人の結婚はカーギル家を拡大することだけに留まりませんでした。—エドナとジョン・Sr.には、ジョン・マクミラン・Jr.とカーギル・マクミランという2人の息子がいました。この2人もまたW・Wにとって忠誠心のある仕事仲間となりました。テキサス州の穀物業界で興味のある仕事に短期間従事した後、ジョン・Sr.は、W・Wの下で働き始めました。そして最終的には、1909年に義理の父であるW・Wが逝去した後、カーギルの社長に就任しました。ジョン・Sr.の財政面での保守的なスタイルにより、カーギルは赤字財政から脱却でき、その後の成長に向けて体制を整えました。

Fusing Two Families InPage
W・W・カーギルが1909年に逝去した後、ジョン・Sr.(上)は、カーギルの指揮をとり、カーギルを現代の企業へと変革することに成功しました。